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ヒデミツの恩人

情報通信ネットワークの佐野秀光社長が、頑張ってきたエネルギーはたくさんの出会いです。同級生の井上さんに高校、大学時代のヒデミツの素顔を聞く連載企画の第1弾。

第11回 ハンデを乗り越えるためにヒデミツは......

 特異な病気だからといって、ヒデミツは悲しいなどと否定的になることはありませんでした。ハンデを乗り越えるためひたすら勉強することで、暗さを吹き飛ばそうと頑張りました。ヒデミツが病気に負けることなく入院していることを両親から聞いた担任の守長先生は、ヒデミツの頑張りにさらに力を貸してくれました。

 病気との闘い、勉強への執着。ヒデミツの小さな挑戦や子供を想う両親の真剣な姿に、心打たれた守長先生。入院先の東邦医大病院に、週2回勉強を教えにやってきてくれたのです。家族以外は面会ができない状況でしたが、病院内の一室を自習室に提供していただき、個人授業がスタートできました。

 5ヶ月間にもおよぶ入院生活でも、ヒデミツは普通の生徒に遅れることなく、勉強ができました。当時を振り返り守長先生は「頑張った努力は並ではない」とヒデミツの勉強ぶりを語っていますが、その努力とは......(以下次号)。

第12回 ヒデミツの両親に感動した守長先生

 入院先の病院で授業を受けるなんて、当時、東邦医大病院では初めての出来事です。公立学校の先生が、ボランティアで入院中の生徒を見てくれることは考えられないことなのです。守長先生は「子を想う両親の姿を見れば当然のこと」と軽く受け流していますが、ヒデミツにとっては忘れることのできないこと。特異な病気が判明し、挫折してしまうのが当たり前ですが、勉強に遅れることはありませんでした。外で運動ができないヒデミツにとっては縄跳びも出来ないので階段を歩く事で補うようにしていました。

 運動への習慣付けの訓練まで行うなど、まるで学校の授業と変わりません。守長先生の授業がなければ、いくらヤル気を出していたヒデミツでも挫折してしまうことでしょう。「基本がしないものに未来はない」と守長先生の教えは、難しい授業ではなく、ごくごく当たり前のことを徹底的に教えることが基本でした。病院内で限られた時間での授業だからこそ、ヒデミツの集中力も養われていったのです。この守長先生の学習法の秘策とは ......(以下次号)。

第13回 基礎を徹底的に学んだヒデミツ

 守長先生の教えは「ラクする教え方」。講義は1回か2回でわからせれば、あとは余暇に使えるわけですから、基礎学力を作ることだけに集中していました。普通の子供のように毎日学校に行くわけではなく、少ない時間で最大の効果を生まなければ、授業についていけません。時間をかけない守長式省エネ授業だったのです。守長先生は当時は40代半ば。教師にとっていちばん脂の乗り切っている時代です。この輝いている時代に出会ったことは、ヒデミツにとっては幸運だったのです。当時は黙読を教えていた学習法でしたが、ヒデミツは声を出して教科書を読んでいく音読を教えられました。1人静かに本を読むことより、たとえ1人でも声を出せば元気になります。守長先生の教えはヒデミツにとっては宝です。大事な先生を1人占めできる機会を与えられたのですから、先生の期待に応える気持ちが、勉強をさらに進化させる結果になっていったのです。そして......(以下次号)。

第14回 どこまでも明るいヒデミツ

 守長先生にとって、ヒデミツのような印象深い生徒は、44年間の教員生活の中で「4~5人しか頭に浮かばない」と語っています。「がんばりがきく」、「人と考えが違う」ヒデミツの少年時代は鮮明に憶えているのです。作文を書いても「自分はこう思う」と小学生でも自らの考えをもっていた生徒でした。先生が教えれば教えるほど、一生懸命受け止めてくれることが、より教えたくなるヒデミツの存在だったのです。特異な病気が判明した時に、守長俊之先生と出会ったことは、ヒデミツにとっては生涯忘れることができないもの。帽子やランドセルに黄色のカバーをつけられたり、体操着を普通の子と識別されましたが、守長先生はそんな差別をなくし、学校ではごくごく普通の子供のようにして下さったことが、ヒデミツは嬉しかったのです。これから一生続く病気との闘いに、明るい展望を拓いて頂いた守長先生は、まさにヒデミツの大恩人なのです。

第15回 29才、23才の若さで選挙を闘う

 「こんど選挙に出るぞ」、ヒデミツは自民党学生部の先輩から声を掛けられました。平成5年横浜市議会議員選挙(青葉区補選)に出馬を準備していた横山正人さんから、選挙スタッフになることを誘われました。当時の情報通信ネットワークは、教育情報センターの名称で、予備校や学習塾に教師の派遣や生徒募集業務の代行などを展開していました。また、大学生のための求人情報誌「J-Worker」を創刊するなど、若者を対象にした事業が主だったことから横山さんは、学生社長として起業した経験をもつヒデミツに白羽の矢を立てたのです。横山さんは29才、ヒデミツ23才。この若い2人の戦いの中、次のビジネスに結びつく大きなヒントを掴んでいったのです......。(以下次号)

第16回 次々と新戦略を打ち出す

 当時、自民党から29才で選挙に出るということは画期的なことでした。古い人たちが選挙事務所に集まり、切り盛りしていました。23才のヒデミツが参謀になるなど考えられません。学生時代から仲間と共にビジネスを起こしたヒデミツの手腕や感覚を選挙事務所のノウハウに生かそうと、横山正人さんが起用したのです。

 ヒデミツの発想は、いつでも新鮮です。従来の選挙運動を踏破するのではなく、常に新しい戦略、戦術を考え、実行、そして成果を求めるフロンティア精神に溢れていました。ポスター、ビラ、のぼり旗、街頭演説、集会などひとつひとつが、ヒデミツのみずみずしい感性から生み出され、相手陣営には脅威を与えるものでした。さらにみんなで考えた選挙必勝の秘策こそ、ヒデミツの人生にとって大きな転機となっていくのです...。(以下次号)

第17回 次々と新戦略を打ち出す

 ポスターやビラをいかに斬新なものにしても、選挙に勝利するわけではありません。29才の候補者を当選させるためには、多くの市民が共感する政策を提言しなければならないと、ヒデミツは考えました。このため、みんなが納得がいく政策を掲げることで、若くても信頼ができる政治家をアピールできると思いました。

 当時は駅前で住民票を交付してもらう行政サービスが始まったばかりでした。もっとサービスコーナーを増やしたり、住民が無理なく行政サービスを受けられる政策を訴えていきました。当時では考えられない「自動交付機設置」を提言するなど、まさに先進的な政策です。横山さんが掲げた身近で、わかりやすい市民サービスの充実は、たくさんの人たちの共感を頂きました。この公約づくりに費やした情熱こそ、ヒデミツにとってはとても重要なプロセスだったのです...。(以下次号)

第18回 ひとつのきっかけから

 横山正人さんの選挙を通じて、単なる選挙スタッフとして頑張ったヒデミツではありません。「サービスコーナー設置」の公約から、お役所手続きに市民の不満が多いことをハダで感じました。市民の不満をなくすことをみんなで論議する中から、法務局でも謄本を取るのに1日もかかってしまう現実にも直面しました。住民票や戸籍謄本、役所手続きも煩雑な現実。身近なところに市民が納得がいかないことがゴロゴロしていることを感じ取ることができました。だからこそ、こんな不満を失くすことを訴えれば、たくさんの有権者から支持を得ることができると思ったのです。

そして、ビジネスでもお客様にとって便利なもの、役に立つことは必ず成功すると直感したのです。ほんのひとつのきっかけから、ヒデミツは新しいビジネスを打ち出していくのです...。(以下次号)

第19回 動物的嗅感をもつヒデミツ

 横山正人さんの選挙には、色んな人たちが集まりました。世代に関係なく幅広い層の人々です。これが選挙の醍醐味のひとつです。この輪の中に、法務局勤務の父親を持つ仲間がいました。ヒデミツは、友人の父親から公簿取得代行業を始めるアドバイスをあたたかく受けました。登記については素人であっても、お客様に役立つサービスを起ち上げる事に賛同を頂き、40年もの法務行政のキャリアを伝授して下さったのです。これも横山さんの選挙運動を通した輪の中から生まれたものです。横山さんは「彼は動物的な嗅感をもっている」とヒデミツを表現しています。自ら切り開いてきたネットワークの中で、人を動かし、ビジネスモデルを構築していく起業家ヒデミツは横山正人さんの初めての選挙で、花開くきっかけが生まれました。まさに横山さんは大恩人のひとりなのです。(完)